世界には色はないものと思っていた。
世界の全てはなにか霧がかかったように曖昧で、ひどく無感動なものだと思っていた。
だが、それは間違いであったといつしか気付いた。
初めから、人に、物に、風に、光に、全て色はあったのだ。
ただ見ていなかっただけで、それらはいつも自分の周りに存在していた。
瞳を開いた者には、それがはっきりと分かっていた。
だから、
Show me the color you found. 〜さまよいびと〜
気付いたら、自分の足は、貴陽にある一つ上の兄の邸へと向かっていた。
何か目的があるわけではない。むしろ、そこに向かうことによって、何か目的が得られるのではないかと、期待していたのかも知れない。
ふっ、と苦笑する。
結局はあそこへ行きたいのだろう。
初冬の風は身にしみる。自慢の衣装をその風にはためかせながら、龍蓮は目的地に足を踏み入れた。
龍蓮にとって、忍び込むことはさほど面倒なことではない。だから、家人を起こさないように兄の部屋に近づくことも簡単に出来た。むしろ、問題はうじゃうじゃいる家人よりも、武芸に秀でた兄の方だ。
音を立てずに、窓から覗きこんで、中の様子をうかがう。
珍しく、彼は龍蓮の気配に気付けなかったらしい。掛け布団が規則正しく上下していた。
こうしてみると、寝顔は年に似合わず少しだけあどけない。
知らずに笑みをこぼした龍蓮は、その気持ちを表そうと懐から笛を取り出した。
息を吸ったその時、丁度月が雲に隠れ、辺りが闇に覆われた。室の中も、暗く、澱んでいく。
龍蓮には、その闇の色が深い、深すぎる青色に見えた。
はっとする。思わず、手を伸ばした。
藍色に沈んでいく、兄に向かって。
だが、その指先は室の外からでは届かない。唇を噛む龍蓮をよそに、意地悪な月は再び姿を現した。温かな光が、龍蓮を、室の中を照らしていく。彼が、視界の中で身動ぎしたのが分かった。
龍蓮は月を見上げる。
どうして、彼は気づけないのだろうか。どうして、彼は飲み込まれようとしている闇に、抵抗しないであきらめようとしているのだろうか。どうして。
どうして、瞳を開けて、見ようとしないのか。
ふいに、龍蓮は彼が月に似ていることに気付いた。
自分からは決して光を放とうとはしないのに、それでも地上に生きる者はそれを愛で、羨望の眼差しで見上げるのだ。夜に浮かぶ姿は、まやかしだというのに。
月の輝かない朝があるから、月の唯一輝く夜が特別だと思えると言う者もいるだろう。なら、月は夜にのみ生きるのか。否、月はいつでも存在している。
龍蓮は、是が非でも月の“色”を彼に見せたくなった。まやかしでもなく、特別でもない、ただ月だけが持つ“色”を。
首を巡らせて、それを手に出来る場所を探した。すると、池にぼんやりと浮かび上がった月を見つけた。鏡のように映し出される月、しかしそれは少し屈折して歪んでいる。
龍蓮はすぐにそれに手を伸ばした。手だけでは届かないので、池の中にも入った。
だけど、どうしても“色”をすくい取ることは出来なかった。それが、彼の色をもつかめないのだと言われているような気がして、何度も挑戦した。けれども、掬えるのは澄み切った、凍えるような冷たさの液体だけ。指の間から零れた雫によって出来たさざ波に揺れる月を、心底恨んだ。
手の中の水を見つめ、ふと考える。
龍蓮の“色”は、何色なのだろう。
龍蓮は水を投げ捨てる。きっと、このように無色透明なのだ。望めば、何色にだって染まることが出来る。求められれば、染められれば、“色”は変わる。
自分が酷く臆病で、弱い存在のように思えた。己は、こんなに、干渉に弱い生き物なのだろうか。
いや。今はただ、彼に“色”を見せてあげたい。
龍蓮はなおも水を掬い続ける。
途中でやっと起き出してきた彼に「無駄なこと」と言われたが、彼のためを思ってやっているこの行為が無駄なことであるはずがない。むしろ、感謝して欲しいくらいだ。
そう思って反論しようとすると、彼は龍蓮を無理矢理池の外へと引きずっていく。言葉で分かり合えぬとみた相手に対するやり方が武力行使とは、随分なことだ。
引きずられながら、龍蓮ははたと気付いた。そうか、彼は“馬鹿”なのか。
馬鹿でも分かりやすいようにわざと易しい言葉を選んで語りかけると、やはり愚兄は反応が薄い。
「楸、兄上」
こんな時は最終兵器だ。
彼がこの呼び方に反応することは分かっているので、わざと強調してみる。
……今更だが、なぜこのような物わかりの悪い奴にここまで心を砕いているのだろう。
龍蓮の言葉を聞いて、彼は呆然と月を眺めている。少しだけ、すっきりした表情に見えるのは、きちんと伝わったということだろうか。
久々に喋り疲れた。いつの間にか拘束が解かれていたので、室で休もうと彼を置いて歩き出す。
「うん、今日も月が綺麗だね」
背後から聞こえてきた台詞に、心を決める。
彼は、やはり愚兄のままだ。こんな、幼児向けに解釈した言葉を口にしたというのに、それでも理解できないとは。
無駄な時間を過ごしてしまった怒りから、一言言おうと龍蓮が振り向くと、困ったように眉根を寄せる愚兄の姿が目に映る。
彼が歩む速度に合わせて揺れる髪。藍色をもっと深く、濃くしたようなその髪の毛に、龍蓮は目を奪われた。
月の光を受けて、輝いていたから。
龍蓮は歩み寄って、それを一房掴み取る。
彼は困惑したような表情を見せたが、そんなことには構わなかった。
きっと、これが“楸瑛”の色なのだ。直感でそう思う。
藍色なのだけれど、でもどこか藍らしくない、そんな色。
見つけた。
龍蓮は、月の色と彼の色の二種類を同時に手に入れたその喜びのまま、そっと髪に口づけるのであった。