The Moon 〜とらわれびと〜

 水面には、月が綺麗に映っていた。
 そして、あの人の髪にも、月が輝いていた。


The Moon 〜とらわれびと〜


 ぽちゃん。
 楸瑛は、微かに水の音がした気がして、眠りから覚めた。
 嫌な予感がする。
 とりあえず、側に立てかけてあった剣を掴むと、少しだけ窓を開ける。
 冬も間近な冷たい夜風が温かい室に吹き込んでくる。少しだけ蒸した室内にそよぐそれは心地よく、そしてそれによって同時に神経が冴えていくのを感じる。
 窓の外を注意深くうかがうと、程なくして目的のものを見つけてしまった。
 “見つけてしまった”。
 池の中に、男が一人立っている。庭園とはいえ、膝上くらいまではある池だ。木枯らしが吹き始めたこんな時期にそんなところにいたら寒いだろうに、男はきっと自ら望んでそこにいるのだ。
 楸瑛はどんな声をかけたらよいものか悩んだ。
 そう、この男は気付けば近くにいるのだ。
 この間は、塀の上で気持ちよさそうに横笛を吹いていた。その前は屋根の上でひなたぼっこをしていた。さらにその前は、木に縄をくくりつけて作った輪に首をかけようとしていた。今巷で流行っているから、とかなんとか言っていたが、あれは本当に焦った。なにも、他人の邸で首つりなんかしなくてもよかろうに。いや、その前に首吊りする方が可笑しいのか。ちょっと待て、巷では首吊り自殺なんかが流行っているのか?
 なんだか思考回路がますます可笑しくなりそうだったので、楸瑛はそこで考えるのをやめた。そして、これ以上対処しにくい状況になる前にあの男をなんとかしなければと思う。
「龍蓮、君そんなところで何を……」
「静かにしろ、愚兄」
 室の中から声をかけると、龍蓮はおかしな状況に似合わず至って冷静な声で楸瑛を遮る。
 思わず何をしているのか気になって楸瑛が近づいてみると、丁度龍蓮は静かにかがみ込んだところだった。
 そして、さらに静かに手で水を掬う。
「うーん」
 しかも、首をひねるとその水を捨ててしまう。波紋一つ立っていなかった水面に、激しい波が立った。
「ねえ、龍蓮、私には君の考えていることが分からないのだけれど」
「何と、愚兄にはこの素晴らしき思いつきが分からないというのか?」
 馬鹿にしたような視線で見上げられる。実際、馬鹿にされているのだが。
「そうだね、君と違って私は至って普通なもので」
 はあ、と溜息をつくと、さらに龍蓮は馬鹿を見るような眼で楸瑛を見つめた。
「ついに耄碌したか、愚兄其の四」
 耄碌するような年ではない。断じて違う。
「はあ、もういいよ。とにかく、上がっておいで。そんなところにいつまでもいたら、風邪をひいてしまうよ」
 まあ、少なくとも目の前でもう一度水を掬おうとしている男よりは年上で、ついでに血も繋がっている(まったくもって信じられないが)。一応唯一の弟の心配はしておこうと手を差し伸べてはみるのだが。
「ちょっと待て。いつも思うが、愚兄は気が早すぎる」
 もう少しでつかめそうなんだ、と龍蓮はまた水面へと向き直る。頑固なこの弟に何を言っても無駄なことは重々承知しているので、仕方なく様子を見守ることにする。
 つかむ、とさっき龍蓮は言った。ということは、何かを掴もうとしているということのなのだろう。何かを池の中に落としたのか。しかし、なぜ龍蓮は水面近くちかくしか掬おうとしないのだろうか。
 楸瑛は龍蓮の手の先を注意深く見てみた。
 ほどなくして、楸瑛はああ、と納得した。
「龍蓮、そんな無駄なことをしていないで、早く上がりなさい。本当に、風邪をひいたら困るから」
 楸瑛は一心不乱に水面を見つめ続けている龍蓮を連れ出すべく、自らも池の中に入った。やはり池の水は凍えそうなほど冷たい。
「ほら、水なんか掬っても月は掬えないから」
 楸瑛は、言いながら苦笑した。改めて口に出してみると、なんとも可愛い話だ。
 そう、龍蓮は先程から水面に映った月を掬おうとしていたのだ。
「当たり前だ。そんなことが出来るわけがないだろう」
 やはり耄碌したな、と龍蓮は楸瑛は哀れみの目で見つめた。
「じゃあ、何を掬っているんだい」
 龍蓮は遠い目をすると、その目を頭上の月に合わせた。
「月の色だ」
 龍蓮は小さく答えた。
 楸瑛は、分かったような、分からなかったような不思議な気分になったが、とりあえず、この寒い状況から抜け出したいと、龍蓮の脇から手を差し入れ無理矢理引きずって池の外まで向かった。
「なっ、何をする! まだつかめていないのに!」
「大体が、月は太陽に照らされているんだろう? 月は、それ単体では光を発さない。ならば、ここで月の光の色をつかむということは、太陽の光を掴んでいるのと同じことだと、私は思うけどね」
 龍蓮は溜息をついた。
「なぜ、愚兄はすぐに結論を出すのだ。それは誰かが月に聞いたものなのか? それとも太陽が語りかけてきたのか?」
「いや、ふたつとも喋らないんだから、話すことは出来ないと……」
 突然何を馬鹿なことを言い出すのだと思った楸瑛は、龍蓮は子供の頃によく聞かされるお伽噺の世界にいるのではないかと錯覚する。
「まただ。誰が月と太陽が口を開かないと言った? 誰が月と太陽に口がないと言った?」
 楸瑛は今自分が考えている月と太陽の関係に何の疑問も抱いてはいない。そうあるものだと思っているし、そうあるべきものだとも思っている。ただ、なぜこの“龍蓮”が言うと、その全てが間違っているように感じてしまうのだろう。時々、楸瑛は龍蓮と接していると、自分の信じているものが果たして正しいものなのかどうか分からなくなるときがある。
「楸兄上は、いつもそうやって自分で先に結論を出して、他の可能性を考えようとしない」
 池の外に出た瞬間、背中から聞こえてきた声に、楸瑛は立ち竦んだ。
「それは、前だけを見ているようでいて、実は後ろしか見ていないんだ」
 自分が選ぶ未来を迷いたくない。……自分の選んだ道が正しいと思いたい。
 そう考えるうちに、そう、確かにその通り、後ろばかり見る人生になってしまったかも知れない。
「じゃあ、どうすればいいんだい、龍蓮」
 自分でも、今の声は弱々しいと思った。
 すると、微かに笑ったような声がして、龍蓮は楸瑛の手を取ると高々と掲げた。
 月へと。
「さあ、月を見るがいい、愚兄よ」
 空には、もうすぐ満月といった不格好な月が浮かんでいる。楸瑛は何を思うでもなく、その月をぼんやりと眺めた。
「月は確かに太陽がなければ輝けないのかも知れない。それでは、月という存在はそんなにおぼろで儚いものなのか。いや、そうではない。それでも人は月を眺め、愛で、そして一個の確固たる存在として認識しているのだ」
 もう一度、龍蓮は楸兄上、と呟いた。
「何かに照らされて生きているようでも、それは確実に存在している」
 真っ直ぐに楸瑛を見つめる。風が吹き抜けた。
 ふいに、楸瑛は全てを理解した。
 自分はずっと藍家によって“生かされている”と心の何処かで思っていた。自分の存在も、自分の兄たちを含む藍家によって敷かれた道の上を歩いているただの駒なのだと、そう思っていた。
 けれど、そう、そこに“楸瑛”はいなかった。
 自分の意志で存在理由を得ようとは思わなかった。藍家の四男ではなく、楸瑛個人として。
 月がいくら照らされなければ輝けなくとも、朝に月が消滅してしまうわけではない。そこにはちゃんと月という存在はあって、いつでもそれは変わらない。考え方は同じなのだ。楸瑛だって、藍家という光に照らされなくとも、ちゃんとそこに存在しているのだから。
「うん、今日も月が綺麗だね」
 素直に分かったと頷くのは安っぽい気がする。かといって、謝辞を述べるのはどこか気恥ずかしい。楸瑛は、当たり障りのない話題で誤魔化すことにした。
「ふん、今頃気付いたのか。やはり、愚兄だな」
 気付けば、龍蓮は既に楸瑛の先を歩いており、身体の半分は邸の中に入っている。
「まったく……。あ、こらびしょ濡れのままで邸内を歩くなよ! 無駄に仕事を増やさないでくれ!」
 いつでも床は綺麗に磨き上げられている。それが仕事とはいえ、こんな理不尽に汚されては、仕人もたまったものではないだろう。
 いつでも他人のことなどお構いなしな弟に楸瑛が頭を悩ませていると、ふいに先に入ったはずの龍蓮がつかつかと歩み寄ってきた。
「どうしたんだい、龍蓮。……また池に入って月の色を掴む、とか言い出しても承知しないからね」
「違う、それはもういい」
 言いながら、龍蓮は楸瑛の髪を一房握りしめた。
「ここにみつけたから」

後書き


多分、これが初書きの龍楸です。
龍蓮の雰囲気を描くのが難しく、途中で何度も悩みました;;
結局、お兄ちゃんに甘える弟に落ち着いちゃったのは、……誤算?(え
書けば書くほど、楸瑛は受だと確信していきます……(笑

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