春望

 絳攸は真剣な眼差しで目の前の事柄に取り組んでいた。
 しかし、手には愛用の筆が握られているわけではない。好きな書を繰っているわけではない。
 その手には、危なっかしい手つきで包丁が握られていた。
 ひとつ、ひとつとあまり綺麗な切り口ではない人参が切られていく。しかし、ゆっくりとした鼓動にも似た包丁がまな板を叩く音は、絳攸が汗を流せば流すほどその間隔が短くなっていく。
 伊達に邵可邸で静蘭にこき使われていない。げっそりして帰路につくと同時に、満足感と腕前は足をそこへ向けるたびに高まっていくのだ。
 ふっ、と絳攸は苦笑をこぼした。
 本当に、刺激的な所だ、あそこは。
 と、手を止めて思いはせていた絳攸は、筍を煮込んでいた鍋が噴きこぼれたことに一瞬気が付かなかった。
 

+春望+


 思えば、こいつと一緒にいるといつも劣等感を感じてばかりなのだ。無駄に容姿が良いし、物腰も柔和で言葉も丸い。剣を持てば彩雲国屈指の実力だし、元文官だけあって頭も相当に良い。
 考え出して、段々苛々してきた絳攸は、今日の昼飯である煮物の中へ箸を乱暴に突っ込んだ。引き出すと、箸の先には、不格好な人参が突き刺さっている。絳攸は益々苛々した。
 人間というものは、時々不公平だと思う。
「……絳攸、何でそんなに急いで煮物を掻き込むんだい」
「お前の所為だ!」
 絳攸は、ついに自分の分を食べ終わって、楸瑛の皿にまで手を伸ばし始めた。綺麗に筍だけ取り分けてあるのを見て、少しだけ唇を噛む。
 ……筍の灰汁が強すぎるかもしれない。
 やけになって、その筍を口に詰め込んだ。
 その様子を見て、楸瑛は深く溜息をついた。
「そんなに食べると太ってしまうよ?」
「うるさい! お前が食べないから、俺が代わりに食ってやってるんだろう!」
「失礼だな、私はちゃんと食べているよ」
 ほら、と楸瑛はひとつ筍を口の中へ放り投げて見せた。
 しゃくしゃく、と美味しそうな音をたててかみ砕かれて、その上、美味しいよ、と微笑まれる。
「……そ、…。それならいい」
 なんだか、いつもこの笑顔に誤魔化されているような気がする。
「そうだ。いきなり文なんて寄越して、今日は一体どうしたんだい?」
 ぴた、と絳攸の箸が止まった。
 そういえば、深い理由は考えていなかった。春物の若いやわらかい筍が手に入ったから、久しぶりに料理でもしてみようと厨房に向かって、それで楸瑛のことを考えていたら苛々してきて、怒りにまかせて食材を切り刻んだらついに一人では食べきれない量になってしまって……。
 気付いたら、文を出してしまっていた。
「桜が」
「うん?」
「今年は早く咲くと言うから、花見でも、しようと、思って」
「私と?」
 一言口にする度に、楸瑛の顔に浮かぶ笑みが大きくなっているのに気付いていた。さっき、美味しいよ、と言って笑った顔とは比べられないくらい嬉しそうだ。それがしゃくに障る。
「たまたまだ、腐れ頭。本当は邵可様のところにでもお邪魔させていただこうかと思ったんだが、それはこの料理の一部と一緒に黎深様にゆずってきた」
 今朝、傍目に見ても浮き足立っていた黎深の姿を思い出す。必死で隠していたようだったが、あれでは周りに筒抜けだろう。きっと今頃楽しく昼食を共にしている頃だろう。自分が作った料理が口に合えば、の話であるが。
 しかし、本当に、本当に嬉しそうだった。…それも、しゃくに障るのだが。
「でもね、絳攸、桜はまだ咲いていないよ?」
 優しい声で言われて、頭上の桜を仰ぎ見る。
 薄桃色の蕾がほころびかけているものの、咲いた花はまだ無かった。
 今年の春は早く来たそうだから、きっと早く咲くだろうと噂されていたのだが、ぎりぎりになって寒波がやってきたのだ。お陰で、ほころびかけた蕾たちも揃ってすぼまってしまった。
 立ち上がって、優しく蕾に触れてみた。冷たい風に晒されて、少し臆病になってしまったように、固く口を閉ざしている。本当は、暖かい風が吹くのを待ち望んでいるのに。ほころんで、満開に咲いて、もっと美しくありたいのに。そんな時間は、春のほんの一部でしかないのだ。
 もっと、自分を見て欲しいのに。
「花の命は短い。特に桜なんかは、咲いたらすぐに散ってしまう」
「絳攸?」
 楸瑛も立ち上がって、絳攸の隣に並んで立った。同じく蕾へと視線を落とす。まだ咲いていないと言うのに、その薄桃色はとても美しい色をしていた。
「桜は、……花が咲いていないと、誰にも振り向いてもらえないのか」
 なんとなく絳攸が何を言いたいのか分かった気がして、楸瑛は絳攸の肩を抱き寄せた。素直に身体を預けてくる温もりが愛おしい。
「まさか。夏だって美しい緑の葉をつけるし、秋はそれが美しく紅葉する。冬は、幹や枝に降り積もった雪が綺麗だ。もちろん、春に開く花も格別だけれどね」
 だから、と楸瑛は腕の中で俯く恋人の頬をゆっくり指でなぞった。まるで、ここに存在していることを確かめるように。
 ひやりとした感触が、顔をなで下ろしていく。その指は、こちらを向くように要求していたけれど、絳攸は振り向かなかった。横で、微かに苦笑する声が聞こえた。
「絳攸、君も無理して一年中花を開かせようとしなくて良いんだよ」
「!」
 はっ、と絳攸は楸瑛を振り返った。
 驚いた顔に、安心させるように微笑む。頬をなぞる指が、横に移動して、薄く色づく唇に触れた。微かに震えている。
「咲きたいときに、咲けばいい。君の花は本当に見事だよ」
 李の花に負けないくらい。
 静かに告げるその声に、絳攸は泣きたくなった。
「……見てくれるのか」
「もちろん」
「咲かなくても?」
「うん」
 主語のない問いかけに、楸瑛はそれでも深く頷いて見せた。何度も、何度も。
「……そうか」
 吐息混じりに呟いて、絳攸はいまだに自分の唇の端をなで続けている指をつまみ上げた。
 その指先に、小さく口づける。そして、すぐにその指をはね飛ばした。
 ふふ、と嬉しそうに笑う姿が、実に気にくわない。
「…ありがとう、の代わり?」
「うるさい」
 図星を指されて、絳攸の頬にうっすらと赤みが差した。
「絳攸、今日のお花見、桜は咲いていなかったけれど、君が美味しい料理を作ってきてくれて、そうして……こんな風に頬を桜みたいに、いや、桜以上に綺麗な薄桃色に染めてくれているから、私はそれだけで十分に楽しかったよ」
「そんな歯の浮くような台詞は、他の女にでも言ってやれ」
 照れ隠しに、そっぽを向いてそう答えると、楸瑛はくつくつと笑いながら絳攸の細い腰に腕を絡めた。
「いやだな、私の恋人は君だけだよ、愛しい人」
「言ってろ、っ……」
 常春頭、と続けようとした唇は優しい唇に塞がれてしまう。一瞬、絳攸は目を見開き、しかし、すぐにそれは閉じられた。手が、そろそろと楸瑛の逞しい背中に這わされていく。
 口の中にまだ微かに残っていた灰汁の苦みが、楸瑛の舌によって甘く変化していく。腰の辺りがどうしようもなく疼いた。
 二度、角度を変えて絳攸の口腔を犯し、最後に上唇を音を立てて吸い上げると、楸瑛は絳攸を解放した。もう薄桃色とは言えないくらい赤く上気した顔が、ぼんやりと楸瑛を見上げる。薄く開いた唇から、物足りないというように小さく吐息が漏れた。
 額に冷たい感触が当たる。優しい口付けに火照った顔に、楸瑛の冷たい手は心地よくて、絳攸はその手をずらして頬に当てた。知らずに、溜息が漏れる。
「……ねえ、外でも良いなら、このままどうだい?」
「だ…っ、誰が、そんな!」
 耳元で囁かれて、慌てて身体を放す。それでも、腰に回った手は、簡単には外れてくれなかった。
「可愛くないね」
「……」
 大体が、男に“可愛い”などと言っても言われても、ちっとも嬉しくない。その逆なんか、最たるものだ。
 睨み付けると、微笑み返された。愕然とする。まさか、こんなことも慣れているのか。
「や、野蛮だっ」
「おや、恋する男はいつでも野蛮さ」
「お前は獣か!」
「ふふ、発情期の獣、ね」
 ぐっ、と腰が引き戻される。思わぬ衝撃に、絳攸は図らずも楸瑛の胸に飛び込む結果となってしまった。楸瑛の衣にたきしめた香の香りが、ふわりと感じる。その心地よい香りの向こうの、楸瑛自身の匂いにくらりときて、絳攸は一瞬抵抗を忘れた。
 愛おしげに背中をさすっていた手が、今度は意志を持って動き始める。絳攸を、堕とそうとして。
 背中から、肩胛骨をかすめて肩へ、うなじを通り、鎖骨をつまむようにして撫で、そうして、指先は胸の先端へと向かう。
 衣服越しに突起をゆるくつままれて、絳攸の背中に甘い電流が流れた。
「っ…! この…、と、こ春…っ」
 ゆるゆるとさすり上げてくる手の絶妙な動きに、自分が否応なしに煽られていくのを感じながら、絳攸は最後の抵抗とばかりに、楸瑛の首筋に噛み付いた。ぎりぎり、襟では隠せない場所へ。
 僅かに、楸瑛が息を詰め、蠢く手の動きが止まる。
「…やったね」
 少し怒りを含んだ呟きに、絳攸はしてやったりと艶めいた笑みを浮かべる。……刹那。
「あ…っ!」
 潰れるかと思うほど強く胸の突起をつまみ上げられる。小さい後悔と共に、切ない悲鳴を上げた。それは、抗議のつもりだったのだが、楸瑛は当然だとでもいうようにもう一度それを引っ張る。
 千切れそうなほど痛くて、でも腰が抜けそうなほど悦い。
 震える指で楸瑛にしがみつく。肩に顔を押しつけて、口から漏れ出るみっともない喘ぎをかみ殺す。
 身体がもっと先の愛撫をほしがって、甘く疼いた。
「しゅ、え…」
 切れ切れに懇願すれば、楸瑛は薄く笑って絳攸の身体を半回転させ、桜の幹に押しつけた。
 幹に額を擦って、微かな痛みに眉を顰める。抗議を視線に乗せて振り返れば、楸瑛は実に楽しそうに笑っていた。
「外で、なんて初めてだから興奮するね」
「この、年中発情期の、常春がっ」
 やめろ、と言えないのを分かっていて、こういうことを言うのだ、この男は。
 しかし、もっと、などとは口が裂けても言えない。
 相変わらず余裕の笑みを浮かべる楸瑛を直視できなくて、絳攸は再び桜の幹へと視線を戻した。顔が熱い。
 鼻歌でも口ずさみそうに、楸瑛は絳攸の腰帯をほどいていく。
 程なくして、絳攸の服は綺麗にはだけられてしまった。
「全部は脱がせないでおくよ。誰かが来たら大変だし」
「誰か、って…。……っえ!?」
 今更ながらに気がついた。
 ここは別に秘所中の秘所というわけではなく、貴陽の少しはずれにある小さな丘だ。今は桜が咲いていないから人はいないが、これが満開の頃ならば、足の踏み場がないほどに花見客が訪れる場所でもある。こんな所で、一体自分は何をしようとしていたのだ。
「ま、待て…」
 口を開いたら、飛び出した声があまりにも濡れているのに驚く。これでは、誘っているも同然じゃないか。
「どうしたんだい?」
 聞きつつも、胸をなぶる手を止めようとしない。先程とは違って緩やかな刺激に、絳攸は微かに腰を揺らしながら、首を左右に振った。
 止めてほしい。
 そう言う意味を込めたはずなのだが。
「ああ、悪かったね……」
 そう言うや否や、楸瑛は下腹部に手を這わせてきたではないか。
 芯をつかまれて、絳攸の背が反った。口から不明瞭の言葉が逃げていく。
 既に湿っているそこを執拗に愛撫され、腰が砕けそうになる。そして、無情な指は性急にも奥の窄まりを目指して移動してきた。
「あ、…いや、そ、んなとこ…っ」
「嫌、じゃないだろう? こんなに、蕾が咲きたがっているのに」
 屁理屈だ。しかも思い切り下品だ。嫌悪感が募る。
 腰を振って逃げようとするのを、楸瑛はその長い腕でもって制した。
「私に、君の花を見せてくれないのかい?」
 小さな湿った音を立てて、形の良い長い指が絳攸の中に埋まっていく。
「あ、ひ、ぃ…っ、った……」
 苦痛の声が漏れる。
 待って、と胸に伸びた片腕に指を添えれば、くすりと笑った気配が耳元でして、嫌な予感に身体が逃れようとするより早く、楸瑛はぬめりを伴った二本目の指を挿入してきた。
「あ、ぁあ…っ! ま、っ…」
 思わず、手を幹にしっかりと巻き付ける。こうでもしていないと腰が砕けて座り込んでしまいそうだ。
 楸瑛は絳攸のその動きを確認すると、二本の指を不定期に動かして容赦なく絳攸を翻弄した。一方の指の動きに気をやれば、もう一方の指が絳攸の弱いところをかすめていく。
 気付けば、絳攸は我を忘れて甘い嬌声を上げ続けていた。目の前がちかちかする。
「ふふ、服を着たままするのも……倒錯的な感じがして興奮するよね」
「ぅぁ、…ん、ぅ……あっ」
 もはや、絳攸には何も答えられなかった。早く高みへ上り詰めたい。こんなのでは嫌だ。
 絳攸には続きを強請るだけの勇気がなかった。口からは相変わらず耳を塞ぎたくなるような嬌声が飛び出していく。口を、あ、の形に開いたまま閉じることが出来なくなる。
 ふいに、楸瑛の息が、耳元にかかる。
「絳攸、ちゃんと感じてくれてる?」
 吐息混じりの問いかけに、絳攸は鼻にかかったような甘い声で応えて見せた。
 悦いから、早く。
「分かったよ、……」
 欲情に掠れた声と共に、ほころび始めた蕾に切っ先があてがわれる。
 ほら、と浅いところをつつかれ、絳攸は歓喜に体中を震えさせる。どれだけ、この男が欲しいのか思い知らされる。
 楸瑛のからかうような挿入は、いつしかなりを潜め、荒々しい愛撫に姿を変えていた。
 お互いに玉のような汗を流し、名を呼び合い、息を乱していく。
 打ち付け、打ち付けられる鼓動だけがお互いの全てになっていく。
「絳攸、これは願ってはいけない望みなのかも知れない。願ってはいけない祈りなのかも知れない。でも、でもね、絳攸……。私だけ、に……」
 許容の範疇を越えた快感が、腰から、全身へと荒波のように広がっていく。
 真っ白に塗りつぶされる意識の中で、最後に、苦しげな楸瑛のつぶやきを聞いた気がした。



 絳攸は、陶然と幹に背中を預け、座り込んでいた。
 下肢を中心に、鈍い疼痛とわだかまる甘い疼きが全身を苛んでいる。
 その彼の乱れた衣服を、楸瑛は懇切丁寧に整え直した。乱れた髪も、結い直す。
 絶頂の後の、指一本動かしたくない心地よい疲労の中で、絳攸は顔を動かさずに瞳だけを動かして上を見上げた。
 楸瑛が穏やかな顔でこちらをみつめている。
「無理を、させたね」
「全くだ」
 声が掠れている。喉が少し痛い。
「さっき」
「うん?」
 辛い身体に鞭打って、ゆっくりと立ち上がる。楸瑛が手を貸そうとしたが、絳攸は断った。
 幹にもたれかかるようにして、ようやく立つ。
「さっき」
 もう一度、絳攸は言うと、楸瑛を真正面から見つめた。
「無理をしないで、絳攸。まだ辛いだろう?」
「話を聞け、常春」
 ぴしゃり、と言うと、楸瑛は素直に黙った。
「お前は、……私だけに咲いてはくれないのか、と言ったな」
 はっ、と楸瑛が絳攸から目をそらす。激しい快楽の中で、意識を途切れさせる寸前、絳攸が最後に聞いたのが、今の言葉だ。
 私だけに。
「お前は勘違いをしているようだな」
 酷使しすぎて限界を訴えている喉は、情けない嗄れた声しか発させてはくれないが、それでも、絳攸は目の前の男に伝えたかった。
「俺は、咲いてくれと言われても、咲かない。咲けないし、咲きたくもない」
 そう告げると、楸瑛は小さく息を吐いて肩を落とした。
 花は、咲いてくれと言っても咲けない。絶対に無理な話だ。
 同時に、咲く時間、咲いている期間、咲く場所、全てが予測不可能だ。
 しかし。
「ただ、……」
 もう一度、楸瑛はこちらを見やった。
 春になったら殆どの花は開花し始めるであろう。それは、花が本来持つ生殖の本能に基づく、ある意味
自主性を持った行動だ。周りの環境の変化に応じ、多種多様に花を咲かせ、子孫を残していく。
 まれに、冬に咲く桜もある。一説によれば、夫を亡くした悲しみに暮れる妻を優しく奮い立たせるように、その桜は夫の命日である冬のある日に、妻の庭でひっそりと花を開かせたのだという。
 以上のことから、花に、自己という存在があり、意志という不確定な個体を持つというならば。
「俺は、自分の意志で咲くことが出来る。それは、誰かに見て貰いたいからだ。ここにいて、俺が俺であることを示してやりたいからだ」
 こんなに自分の心の中を他人に吐露したのは初めてだ。
 自分でもびっくりするほど簡単に口の中から滑り出た言葉が、楸瑛の周りで優しく踊り出す。
「花と同じように。いや、花以上に」
 自然に、笑みがこぼれた。
 花にこだわる自分があまりにも滑稽だ。しかし、伝え終わらなければ、目の前の馬鹿な男はきっと理解してはくれないだろう。
「俺は、お前以外の前では咲かない。咲けないし、咲きたくもない」
 言い終わって。改めて居たたまれなくなってくる。恥ずかしい。
 きっと顔が赤いだろう。火を噴きそうだ。
 そんな顔を見られたくなくて、そしてきっと喜色満面であろう常春馬鹿男の顔を見たくなくて、絳攸はそっぽを向いた。
「ねえ、絳攸」
「何だ、いやもう喋るな常春頭」
「ねえ、絳攸、桜が……」
「喋るなと言って……、え?」
 楸瑛の指先に促され、頭上を見上げれば、桜の大木から遠く離れた小枝に、小さく。
「咲い、てる」
 呆然と見上げる。
 楸瑛も同じらしく、二人はしばらくその美しい薄桃色の小さい花弁を眺めていた。
「咲かなくて、いいのかい? 本当に」
 楸瑛が唐突に切り出したが、絳攸には有る程度その質問がくることを予想していたし、その不明瞭な質問の意味も正確に理解していた。
 だから、迷わずに応える。
「もう、あの人に存在を誇る理由がない。なぜなら、俺は自分の意志で今ここに存在しているからだ。わざわざそれを主張したところで、結局は何も変わらない。これを、今知った。それに、お前が言ってくれただろう、咲いていなくても見てくれるとな」
 これが全てだった。
 きっと、自分が心配するようなことは実際無かったように思う。そして、これからもきっと無い。ありのままでいいのだ。今ここに自分が李絳攸として存在できているこの事実だけで、自分はとてつもなく幸せだ。
「ありがとう」
 蕾から視線を逸らさないまま、楸瑛がぽつりと呟いた。
「なぜお前がそう言う必要がある」
「……なんとなく」
 ふいに、絳攸は悟った。
 なんとなく。
 その五文字に全てが凝縮されているのではないかと。
 今まで自分が並べ立ててきた論理や推察や結論でさえも、突き詰めてしまえば、ただなんとなく、でしかない。
 ふっ、と口元に笑みを刻む。
「楸瑛」
 何だい、と振り返った端正な美貌の中の、形の良い口唇に浅く口づける。
「いきなり、どうしたの」
 絳攸は笑みを浮かべたまま楸瑛を抱きしめた。
 花が咲くのも、散るのも、それを愛で、眺めるのも、不要だと切って捨てるのも。
 そして、目の前の男が愛おしくて仕方がないのも。
「なんとなく、だ」

後書き

コンセプトは、ズバリ青姦です。
つか、それがかきたかっただけ。なのに、なぜこんな長さに、、、
皆様、スクロールお疲れさまでございました。申し訳ない;;;  @空見

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