悩んでいた。
このままで、本当に良いのだろうか。
否、良くはない。良いはずがないのだ。
なのに、
なぜこんなにも気持ちが揺れてしまうのだろう。
+そしてねじれる運命に+
「何だ、絳攸。……ずいぶんと荒れているな」
尚書室の椅子に腰掛けながら、吏部尚書・紅黎深は茶をすすった。横目に、いつにも増して乱暴に決裁書の訂正を行っている養子を見る。
「何でもありませんっ。そんな余裕かましてお茶を飲んでいる暇があったら、そこの書類に決済印でも押してくださいよ! その一動作のせいで、ちっとも仕事がはかどらないんですよ、黎深様!」
なぜ、この養子はこうも可愛げがなく育ってしまったのだろうか。兄である邵可の娘は、あんなにも可愛く育っているというのに。そう、あの憎き仮面尚書の下で下働きをしていたころの、彼女といったら……ああ、彼女に手ずからお茶を入れてもらえた鳳珠が非常に羨ましい。きっと、鈴が鳴るような可愛い声で言っただろう、“「こう」尚書、お茶が入りましたよ?”
……あぁ。なぜ似たような読み方(作者注:そりゃあ日本語読みの場合ですよ?中国語読みだと全然違いますから;;)なのに私ではないのか。
「……黎深様、お茶が……」
「黙れ」
きっ、と睨み付ける。幸せな時を、そんな可愛くない声で……いや、まあ、可愛くないこともないかもしれなくもないのだが……壊されてなるものか。しかも、丁度似たような台詞を。
「……零れますよ、お茶。……それから、その妙ににやけた顔、止めてください。吏部以外でそのような顔をされては、吏部の威信に関わります」
知らずに、表情筋が伸びきっていたらしい。さっと持っていた扇で口元を隠すと、黎深は冷たい視線を絳攸に送る。何が威信だ。
「……お前こそ、心ここにあらずといった顔をしているぞ、絳攸」
見れば、なるほど絳攸は黎深に対して怒っているのではなく、彼を通して別の存在に対して憤っているように感じられる。
ぎくり、とした顔になった絳攸は、しかし、その表情を殺して紙に向き直る。さっさと終わらせなければならないのだ。そう、さっさと……
え?
絳攸は動きを止める。一体、何のために仕事を終わらせようとしているのだろうか。
「時に、あの藍家の若造の事だが……」
がたがたがたッ
叫び声と共に、絳攸の手のすぐ隣にあった用途別に様々な形をした筆やら硯やらが全て机の下にひっくり返った。絳攸の薄水色の官服が台無しだ。
「しゅっ、楸瑛の事は関係無いでしょう!」
図星も図星、非常にいたいところを突かれて、絳攸は大いに慌てた。さらに、飛び散った墨を見た途端にそれはさらに激しくなる。全身で焦っている養子の姿を見て、黎深の笑みが更に深まった。
「私は、“藍楸瑛”などと限定していないが?」
絳攸は布を持って墨を拭こうと身をかがめた姿勢で、見事に固まった。
墓穴どころではなかった。人が100人は余裕で入れる穴を、一瞬で掘ってしまった。
「やはりな」
くっく、と喉の奥で笑う黎深。既に石像と化してしまった絳攸は動くことが出来ない。いや、今ここで動いたら、さらに深く穴を掘ってしまいそうだ。
「絳攸」
どうしてこういう時ばかりやたらと優しい声で迫ってくるのだろう。
黎深は口元を扇で隠しながら、石像に近づくと、耳元に何事か呟いた。途端に石像に色が戻っていく。
「そ…れは」
絳攸は、ゆっくりと、本当にゆっくりと黎深を振り返った。愕然とした色が、絳攸の顔一面に広がる。
なんだって。
「聞こえなかったのか」
絳攸は頭を振る。
聞こえたからこそ、意味を理解したからこそ、信じられなかった。
「さあ、お喋りは終いだ。……茶、おかわり」
絳攸は、急須へと手を伸ばした。
本当は、今すぐ駆け出したい気分だ。
……どこへ?
+++
ふと、書が読みづらいことに気がついた。
夜の府庫は、月明かりだけしか差さないために暗い。だから、わざわざ蝋燭を持ってきていたのだが、気付けばその灯が消えている。
無心に書をめくりながら、気付かないうちにいつの間にか蝋燭がつきていたらしい。
目を悪くしかねない状況に小さく嘆息し、そろそろ帰る頃か、と書を閉じて腰を浮かせる。
今日も邵可の好意に甘えて居残っているが、そろそろ施錠をして帰らなければ、ここで一晩を過ごすことになりそうだ。
活字の読み過ぎで凝った目尻を揉む。
このままだと府庫の貯蔵書を全て読み明かしてしまうかもしれない。
燭台に、予備でもって来て置いた蝋燭をさす。明かりをともすと、自分の周囲だけがぼんやりと明るくなる。
なぜだか、自分の衣の色が酷く気になった。
蝋燭の灯に赤く照らされる青の色。
それは、紅く照らされる、藍の色にも似ていて。
彼は否定するように首を大きく振った。
机に立てかけてあった自分の得物を腰に差すと、出口に向かって歩み出す。
ああ、今日も来てはくれなかったね、そう想いながら。
+++
こつり、と沓の音が止まった。
その男が、府庫の出口の柱に右手をかけて、今まさに室から出ようとしている格好そのままで止まっているのだ。
言わなければならないことがあったのだが、そんなことが吹き飛ぶくらい、その男の顔が笑えた。
「……なぜそこで笑うんだい」
思わず小さく、くすりと漏らした笑いを目敏く見つけては、少しだけ不機嫌そうな顔になる。そんな彼の様子がまた面白くて、今度こそ吹き出すと、彼はますます不機嫌そうな顔になった。
「いつ、ここに?」
「はっ、そうだな、……ふふっ、…俺が来た、時には…っ、まだ蝋燭は、燃えていたな……ははっ」
頼むからそういう顔をしないでくれ、と絳攸は腹をよじった。
そんな絳攸の頬を、楸瑛はむにっとつまむ。
「こんなところで待っていないで、入ってくれば良かったのに」
一緒に秋の夜長を謳歌したかったな、と楸瑛は言う。
絳攸は、迷っていた。ずっと迷っていて、入ることが叶わなかった。それを説明するような上手い言葉を紡ぎ出せないのを、頬をつねられて喋れないのだと自分に嘘をついて、絳攸は黙り込む。
静かに頬をつまむ手を払いのけると、笑みを消して楸瑛に向き直る。表情を感じさせない顔で少し高い位置にある頭を引き寄せると、深く唇を重ねる。
「…絳攸、どうしたの」
熱い吐息と共に楸瑛が問いかけると、珍しく絳攸は微笑んだ。
「愛している」
様々な意味を込めて、優しく。
「だから、……っ」
言葉を全て言い終わらないうちに、楸瑛は唇を再び奪われていた。なぜ、という言葉を全て飲み込むような長く深い接吻。情熱的に、しかし、性急的に続いたそれは、始まりと同様に唐突に絳攸によって終わる。
荒くなった息を整える間、二人は瞳を合わせなかった。
「お前」
肩口に額を押し当てて、絳攸は泣きそうな声を出す。
「俺が好きか?」
「絳攸……」
「俺を愛しているか? 俺が欲しいか? 俺と共にありたいか?」
「絳攸、私は……」
絳攸は、意を決したように楸瑛と瞳を合わせた。絳攸の瞳は涙であふれかえっていた。
「俺のために、“全て”を捨てられるか……?」
「…………」
楸瑛は、全てを理解した。否、してしまった。本当は、気付いていたけれど、あえて目をそらしていたのに。突きつけられてしまった今、答えを、答えを出さなくてはならない。
……楸瑛は、是と答えられないのだ。そして、それを絳攸は分かっている。分かっていて言ったのだと知っているのにもかかわらず、やはり答えるのにはためらいがある。
絳攸の言った“全て”とは、ずばり“藍家”を指す。つまり絳攸は、自分のために藍家を捨てられるかと言ったのだ。……楸瑛に捨てられるわけがなかった。
ぽろぽろと絳攸の瞳から涙がこぼれ落ちる。楸瑛には、その涙さえ拭ってあげることは出来なかった。
「頼む、……間違えるなんてことは、するな」
楸瑛は、何も言わずに瞳を逸らした。それが、答えだった。
もう、あとから、あとから湧いてくる涙のせいで楸瑛の表情が見えない。……その方がいいのかもしれない。
「ありがとう……。あ、いや、おかしいな、ここは怒るべきところか?」
袖で涙を拭うこともせず、絳攸はにこりと笑って見せた。
「俺も、……黎深様を、捨てることなんてできない」
絳攸にとっては、対象は紅家ではなく黎深そのものとなる。だが、その黎深が紅家当主な今、それは紅家と本質的には同じ意味を持つのだ。
「結局、紅家と藍家は交差することはない。もし、俺たちが例外だとしても、それは捻れだ」
平面上では交わったように見えても、実は立体上では交わってはいない。
妬けるな、と楸瑛は呟いた。
「藍家が、君を拾えば良かったのになぁ……」
楸瑛は絳攸を抱きしめた。きつく、きつく。
「いいかい。私が君を愛したのは事実だからね」
「……ああ、分かってる」
絳攸には楸瑛が変な意地を張っているようにも見えた。けれど、その言葉の端々から、滅多に真意を見せることのない楸瑛の、ささやかな本音が見え隠れしていることも分かった。
「俺もだ、楸瑛」
だから、この頬を濡らす冷たい雫は、彼の眼から零れたのだとは思わないでおこう。
互いの体温を惜しんで、二人はゆっくりと体を離す。
「………じゃあな」
「うん、さよなら」
別れの言葉を口走る。歩む先は別方向。
次の日の逢瀬の約束もしないままに、二人は進んでゆく。
願わくは、あなたが悲しみの涙で溺れないように。
了。