ある雨の日に。

じっとりと、湿気を多く含んだ空気がまとわりつく。
不快なそれに苛立ちを隠そうともせず、吏部侍郎は書簡を広げる。
湿気を含んでいるせいか、いつもより書が重いように思うのは、気のせいか。
「……っ、くそ」
よく見れば、彼が広げているのは仕事でいつも使っている書簡ではなく、手書きと思われる地図だった。
「なぜ、俺がこんなことをやらなければならないのだ! ……いつもなら、下級文官ぐらいいるだろうに、いっぱい!!」
左手に握った地図を皺にしながら、叫ぶ。
よりにもよって、紙の買い付けの交渉を自ら行かなければならないとは。
原因は、ここのところの定まらない気象のせいだ。
からっと晴れたかと思えば、土砂降りになる。晴れなのに寒い日もあれば、雨なのに暑い日もある。もともと、この時期は梅雨だから、こんな風に定まらないのもうなずけないほどではない。ただ、今年は、いつもよりも変化が激しいのだ。
そして、その激しく変化する気象に煽られるかのように、宮廷内では文官および警吏の病欠が多発しているのだった。もちろん、彼の所属している吏部も、ほぼ全員が体調を崩し、執務を休んでいる。
主上付、しかも(悪鬼巣窟)吏部侍郎までこなすとあっては、休むことすら許されない彼。多少体調が崩れようとも、山と詰まれた仕事は待ってはくれないのだ。
「大体がッ! 黎深様が本気で執務なされれば、いつもいつもこんな苦労などしなくてすむというのに……!」
ひとしきり悪態をついたあと、それでもすっきりしない不快感をあらわに、彼はずんずんと歩を進めていった。
もちろん、どこへ向かっているかもわからずに。



+++

いつの間にか、季節はすっかり梅雨に入っているんだな……。
降り始めた雨をぼんやりと眺めながら、楸瑛は思った。
「今頃、何してるのかなぁ……」
そして、そのぼんやりとした意識の中で、ぽつりとつぶやいてしまったことに驚き、あわてて口を閉ざす。
まったく、何を考えているんだか。
だが、何をしていても、つい、その辺に迷い込んでいないか目で探す習慣ができてしまったことや、こうやってぼーっとしていると彼のことが頭に浮かんで離れないことも、ひとえに彼がいとおしいからなのだ。
「まったく……」
大分骨抜きにされたようだね、と楸瑛は苦笑する。
その小さな笑いに呆れるように、雨のにおいに誘われてひょっこり出てきた蛙が、ゲコ、と一声鳴いた。
「おや、君なんかに私の情の深さがわかるとは到底思えないけどねえ…?」
あまりに良い瞬間に鳴いたもので、楸瑛は馬鹿にされた気分で蛙を睨んだ。しかし、剣呑さをにじませる視線に動じることなく、蛙は再び間が抜けた声で鳴くと、そのままどこかへ飛び去っていってしまった。
蛙のくせに、そっけない。楸瑛は、呆気にとられて、ただ去る緑色の背中を見送ることしかできない。
それが、なぜだか、ひどく腹立たしいのに、どこか笑えてしょうがないのはなぜだ。
「……ぷっ」
ついに負けて、楸瑛は噴き出した。
続いて、抗えない爆笑の波が押し寄せてくる。
さすがに、宮廷内でいきなり爆笑するのはまずい。楸瑛はかすかに体をくの字に曲げて震えながら、なんとかその波をやり過ごした。
「蛙ごときに手玉に取られるようじゃ、……?」
恋人失格だな、と続けようとした唇は、近づいてくる足音によって閉ざされる。
瞬時に「左羽林軍将軍」の顔に戻る楸瑛。
ゆっくりと振り返った彼の前に、どこか不恰好な官服を着た新人と思しき官吏が走りよってきた。
「らっ、藍将軍でいらっしゃいますかっ!?」
肩で荒く息をしながら、新人官吏は必死な声を上げた。
「騒々しいねえ。何かあったのかい?」
湿気を帯びて垂れ下がってきた前髪を整えながら、答える。
「あ、あのっ、私吏部で働いている者ですが」
吏部、という言葉に少し反応する楸瑛だったが、そんなことはおくびにも出さないで優雅に微笑んでみせる。
「それで? 武官である私に、吏部の文官がなんのようなんだい?」
「それで、そのぅ……、侍郎殿をご存じありませんか?」
この場合の侍郎というのは、まず間違いなく、楸瑛のよく知るあの迷子侍郎であろう。
少し、不安な気持ちが心をよぎる。
「いや、今日はまだ会っていないよ。彼が、どうかしたのかい?」
本当は、肩をつかんでもっと強く問いただしてやりたい。
あせる気持ちをこらえながら、楸瑛は「将軍」を保とうと表情筋を総動員した。
「いえ、それが、最近気象の変化に追いつけずに、あー……、職務を休む官吏が急増していまして……。えっと、吏部も例に漏れず、執務が滞る事態になりまして…」
あたふたと事情を話す新人官吏に、苛々が募る。それでも人当たりのいい笑みを浮かべたままなのは、さすがというべきか。
それで、と優しく先を促しつつ、しかし、握った右手が小刻みに震えているのだ。
「それで、李侍郎殿が仕方なく、本来ならば下級のものがやる仕事を、やると引き受けてくださって……、それは、そこまではよかったんですけど」
「けど?」
うじうじと言い募っていたが、思い切ったのか、新人官吏は顔を勢いよく下げてきた。
「不躾なのは重々承知の上です! ですが、侍郎がお戻りくださらないと、吏部は機能しなくなってしまうんですッ」
ぽかん、という効果音が似合う様子で、楸瑛は三秒間止まる。わかりにくい状況説明もあったものだ。
が、すぐに状況を理解して、官吏に顔を上げさせるようにいった。
「つまり、李侍郎はその仕事とやらをしに出て行ったきり、戻ってきていないんだね?」
そうです、と涙目になる。
「紅尚書は、いらっしゃるんだろう?」
わかりきったことを口にする楸瑛だったが、黙って首を振る官吏に、訊かなければよかったと後悔した。相手は、あの紅黎深である。一筋の縄ぐらいではびくともしないのだった。
「でも、なぜ私に? ほかにもいっぱいいるだろう、……」
具体例を出そうとした楸瑛は、そういえば彼と接点のある人は少ないな、といまさらながらに思う。
「あ、それは、将軍は侍郎殿と仲がよろしいようですし、ですから、侍郎殿の行く先が少しはわかるのではないかと……」
楸瑛は内心頭を抱えた。
彼が帰ってきていない、ということは、十中八九道に迷っているはずだ。
自分自身でもどこへ向かっているかもわからないような人を相手に、どう行く先を絞ればいいのか。
うーん、と眉間にしわを寄せてうなった楸瑛を見た官吏は、気分を害してしまったのではないかと、青い顔になった。
「ああ、あ、あの!! ご気分を害されたのであれば、申し訳ありませんでした! ですが、ぜひご協力いただきたいと……」
「絳攸は、どこへ向かったんだい?」
「は?」
「だから、絳攸はどこへ向かったのだと聞いているんだ」
厳しい目に促されて、官吏はしどろもどろになりながら説明した。
「じゃあ、絳攸は書と紙の買い付けの交渉に単身、徒歩で出かけたと?」
はい、とうなずいた。
それでは、城下に出て行った、ということになるだろう。しかし、なぜ文で事足りる様なことを、彼が徒歩で出向いてしなければならないのか。
第一、梅雨なんだから、外に出たら雨に降られてしま…………
「雨、だって……!?」
雨は今朝は降っていなかった。
執務を開始してからすぐにその仕事とやらにいったとなれば、彼はきっと今頃……
急に駆け出した楸瑛に驚いて、官吏は声を上げた。
しかし、かまってはいられない。
疾走する楸瑛の耳に、さっきの蛙の声が聞こえた気がした。
相変わらず間抜けた声に、楸瑛は再び苦笑する。
ああ、そうさ。
私は結局、彼に首っ丈なのさ。



+++

「寒い……」
誰に言うともなく、絳攸はつぶやく。
それもそのはず、彼は突然振ってきた雨を防ぐことができず、思い切り降られてしまったのだ。しかし、品質保証のための見本紙はぬらすことなく大切に抱えている。
今日、絳攸がわざわざ出向いたわけは、じつはこの紙の品質問題にある。
最近、質が落ちてきているのではないかと、苦情が来たのだ。そこで、朝の朝議にかけるため、見本の紙を製造元から取り寄せようとしたのだが、事情を知った向こう側が反発し、頑として首を縦に振ろうとしなかったため、説得に説得を重ね、実際に伺うから、という話でようよう許可を取り付けたのである。
絳攸にしてみれば、いい迷惑この上ないのだが、誰も行きたくない、行かれないと言われれば、仕方なく、行くしかなかった。
しかし、どうだ。
彼は見事に道に迷い、地図をなくし、おまけに雨にぬれて凍えそうだ。
雨をしのぐために、軒下に入ったはいいが、この廃屋は無人になって久しいらしい。
最悪。
この言葉は、こういうことのためにあるのではないかと、絳攸は思った。
「きっと、吏部は大変なことになってるんだろうな……」
統率が取れない組織は非常に危うい。
そして、普段から統率らしき統率が取れていない吏部は、てんてこまいどころではないだろう。
だが。
「せめて、輿かなにかで来るんだった……。雨が降るとは、思わなかった、から………」
独り言をぶつぶつといいながら、彼はその言葉を聞いてくれる相手がいないことに気がついた。いきなり不安になって、語尾が小さくなる。
そうして、自分の声が聞こえなくなったころ、周りに人が誰もいないことに気づく。聞こえるのは雨の降る音だけだ。いったい、ここはどこなのか。
「あの、地図……、間違ってたんじゃないのか?」
しかし、やはり自分の方向音痴は認めたくない。絶対に。
きっと、地図が間違っていたか、一本道を間違えたか何かだろう。
そうだ。そうに違いない。
「何やってるんだ、あいつは……」
ぼーっと雨を眺めていた絳攸は、思いがけずつぶやいてしまう。しばらく、「あいつ」の顔を思い浮かべてみたりしていたのだが、ひときわ大きな水滴が、屋根の端から水溜りへぽたりと垂れた瞬間、急に現実に引き戻されて、絳攸は顔を真っ赤に染めた。
なっ、何を考えているんだ、俺は!
でも、でも、迷子になったら、いつでもあいつが助け舟を出してくれていた。困ったときに顔を上げれば、いつでもそこにあいつがいた。手の届くところに、いつだっていた。そうしているうちに、ほんの少しだけ、迷うのが楽しくなっている自分がいて。
「困ったな……」
由々しき事態だ。自分が、あんな常春に現を抜かすなどと……
ゲコッ。
「うわっ」
急に蛙の鳴き声がして、驚いた。
間抜けな顔がこちらをまるで、それは嘘だろう、という風に見つめられる。
負けず嫌いの絳攸は、そんな蛙の視線にも負けたくなくて、しばらくにらみ合いが続いていく。
「……ぷっ」
が、先に折れたのは、相手の間抜けな顔が面白いのと、自分のやっていることがばかばかしいことに気づいたのと、いろいろなものがない交ぜになって、噴き出してしまった絳攸だった。
気がそがれたのか、蛙は一声鳴くと、去っていってしまう。
どこかほほえましいその様子に、笑いを殺しながら、絳攸は蛙を目で追っていった。
「蛙なんぞに、一本取られたか。……まったく、このままじゃ」
「このままじゃ、なんだい?」
このままじゃ、想い人として失格だな、そういおうとした口が、開いたまま閉じない。それどころか、言葉もようよう出てこない。
「なっ」
顔を上げた先で微笑んでいたのは、いつもと変わらずに青い系統の装飾品を身につけている、「あいつ」だった。
「何で、ここにいるんだ、楸瑛…!」
絳攸は立ち上がって、傘を差している男に問いかけた。
「いや、雨の日に傘無しで一人は心細いかと」
「余計なお世話だ!」
そっぽを向くも、楸瑛には絳攸の顔が紅潮しているのがよくわかっていたので、あえてつっこんで訊かないことにする。
「何で、ここが」
小さく、絳攸の口唇からこぼれた言葉。すべてを楸瑛は拾い上げて、ふわりと微笑んで見せた。
「ずばり、愛の力で」
「いらんわッ!!」
真っ赤な顔をして、楸瑛を怒鳴る。ははは、と楸瑛は愉快そうに笑った。
いつもの、軽口の言い合い。
それで、絳攸は、やっと「相手」が現れたのだと知る。
そして、そのことにひどく安堵している自分にも気づく。
あいつがいないだけで、相当沈むな……。
それは、それだけ相手を求めているということで。
「早く戻ったほうがいい。君の部下たちが、目を回しているよ」
「ああ、そうだな……」
荷物を手に楸瑛のほうへ歩み寄った絳攸は、楸瑛の手に、一本しか傘が握られていないのを見て取ると、怪訝そうな顔をした。
「俺の、傘は?」
「何を言うんだい、君は。一緒の傘に入っていくにきまっているじゃないか」
そのために、一番大きな傘を選んできた、と楸瑛は笑っている。
その能天気な常春頭を殴ってやりたくて、絳攸は目を吊り上げるが、しかし、あげかけていた手は途中で降ろされた。
まあ、それもたまにはいいかもしれない。
「それなら、さっさと行くぞ」
「珍しいね、君が文句を言わずに従うなんて」
楸瑛の隣に収まりながら、絳攸はにらみつける。
お前が言い始めたことじゃないか。
その言葉は、口唇の裏側まで迫ってきたものの、外へ出ることはなかった。
優しい男の口唇によって、ふさがれてしまったから。
「お前……!」
「ごちそうさま」
よりにもよって、この男は、こんなときに。
言いたい文句は腐るほどあるが、それ以前に、絳攸は気になることがあったので、歩きそうになっている楸瑛をとめた。
「待った。これ、濡れると困るから」
そう言って、荷をきつく胸に抱きしめる。
紙が水に濡れてしまっては、話し合いはもちろん、せっかく出向いてきた意味がなくなるのだ。
それを聞いた楸瑛は、小さく眉を顰めると、
「そうかい」
言って、彼は絳攸の肩を抱き寄せた。
「なっ、何するんだ、常春!」
「こうして、くっついていれば、濡れないだろう?」
不敵に笑われるので、むかっ腹が立つのだが、しかし、考えてみればなるほど、中央に小さく固まった今、雨に濡れる心配はなくなったわけである。
絳攸は、どちらかというと、怒りよりも羞恥心が先にたって、手を振り解こうとした。
「なんだい、つれないね」
だが、楸瑛がそう簡単に開放してくれるはずもなく。結局、されるがままになってしまう。
「こっ、今回だけだからな!」
「はいはい」
頬がくっつくくらいに顔を寄せる。
楸瑛としては、先程絳攸が紙をかなり大事そうに抱えたことに嫉妬しているから、彼が荷を抱えている腕をゆるめて、できれば自分の腰にその腕が絡めばいいと思っているのだが、この困った侍郎の性格上、それは無理らしかった。
しかたなく、そのまま歩みを進める。
しかし、突然二人は立ち止まって、そろって同じところを見た。
ゲコ、ゲコッ。
あの、間抜けな声と、顔に意識が向いたからだ。
「間抜けだねえ」
ぽつりと溜息混じりに呟くと、
「ああ、間抜けてる」
それに返される言葉も、同じように溜息混じりだった。
絳攸は隣の男の顔を視線で探し、しかし視線が合わさる前に慌てて顔を背けた。
「でも、悪い気は……しない」
紅くなった横顔を見て、笑みを深める。
「そうかも、ね」
たまには、こうやって自分の気持ちに疑問を投げかけてくれるのもありだと思う。そうすれば、もう一度、彼を好きでいることを確認できるから。彼に、実は首っ丈であることを自覚できるから。
覚悟を決めて、顔を楸瑛の方へ動かすと、彼は待ちかまえていたかのように、既にこちらを向いていて。
視線が絡まったとき、それが合図になって、二人は深く口付け合った。



梅雨空の下、二人は並んで歩いていく。
傘を差す楸瑛の腰には、しっかりと絳攸の腕が回されていた。

失格だなんて、もう、誰にも言わせない。



EN
D

後書き (ってか言い訳

ああ、時間無くて最後が適当に〜(汗
何と言っても、今日はテスト二日前ですからねえ(おい
まあ、息抜きですよ、息抜き。
にしても、願望が現れちゃったのか、絳攸が可愛くなり過ぎちゃったな……(汗  @空見

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