タナバタ

 夕暮れが近い公園で、彼は一人ブランコに揺れていた。
 公園には彼以外に人の影は見えない。彼は一人きりで段々と長くなっていく影を眺めながら、ゆっくりとブランコを揺らし続けていた。
 彼はまだ学校帰りの制服姿だ。帰りがけに、どうしても見せたいものがあるからここで待っていてくれと言われ、仕方なく一緒に帰るはずだった至高の存在との約束を断腸の思いで取り消し、家にも帰らずに部活で遅くなるであろう彼を待ってこうしているのだ。
 しかし、それにしても……
「遅ぇ……」
 夏も盛りに近づき、日が短くなったことも相まって、そんなに遅い時間でなくても辺りがすぐに暗くなっていく。暗い中に一人居ることは別段恐いことはないのだが、それでも、待ち人が来ないまま長時間一人で居ると多少なりとも心細い。
 早く来い、と足下に転がっていた石を軽く蹴り上げる。その石は前方の鉄製の柵に当たり、金属質な高い音をたてた。
 その反響する音が余計虚しさをかき立てて、彼は少々後悔した。そして、それを紛らわせるように少し強くブランコを揺らす。視界の中の薄暗い町並みが上下に揺れた。
 そうしてしばらくブランコを揺らし、タバコを燻らせていると、辺りはすっかり暗くなってしまった。部活動が終わる時間帯にしては随分と遅すぎる。
 まさか、この自分との約束を忘れて帰ってしまったのではあるまいか。
 頭に疑念が沸き上がる。彼からしてきた約束なのだから、それはあり得ないと思うが、しかし彼ならばしかねないとも思える。
 折角綱吉と一緒に帰れるのだと内心大喜びしていたのに水を差され、さらに自分の日程まで狂わされたのだ、相応の穴埋めをして貰わなければ困る。
 だから、もう少しだけ、待つ。
 もう少しだけ…
 もう…
「……おっせーんだよ、野球馬鹿が!」
 ついに耐えきれなくなって、ブランコから飛び降りる勢いで叫び出す。彼は吸っていたタバコを地面に落として恨みを込めて踏みつぶすと、踵を返した。
 もう、帰ってやる。
 そうして彼が乱暴に足を進めて公園の入り口にさしかかったところ、
「ごーくーでーらぁー!!」
 路地の向こうから騒々しい足音と、更に騒々しい自分を呼ぶ声が聞こえた。それは喜びよりもむしろ怒りを増幅させるだけで、獄寺は一切振り返らずにすたすたと公園を後にする。
「獄寺! ちょ、待てって!!」
 しかし、先程までは随分と遠くにいたと思う声の主が、一瞬後にはすぐ後ろに来ていて、獄寺は慌てて早足になった。
 しかし、走っている相手には勝てずに、とうとう腕を捕まえられてしまう。
「悪かったって、待ってくれよ、獄寺!!」
「うっせーな、ギャーギャー言わなくても聞こえてんだよ」
 痛いくらいに掴んできた手を振り払うように振り返れば、恐らく全速力で走ってきたのだろう、僅かに紅潮した顔が目の前にあった。
「マジでごめん、ミーティングが、長引いちまって…」
「はっ、んなの知るかよ」
 息を整える前に謝罪してくる姿を一笑する。これだけ人を待たせておいて。獄寺は再び踵を返した。
「っつーわけでオレはかえ……」
「更に悪いんだけど、走ってくれ、な!」
 は、と言葉を発したときには、既に手を取られて、一緒に走らされていた。
 間に合わねえ、と叫びながら、ぐいぐいとこちらを高速で引っ張るので、迂闊に振り解くことも出来ず、獄寺は不本意ながら一緒に走らなければならなかった。
 もちろん、何故走っているのかも、何処へ向かっているのかも分からない。ましてや街灯もまばらな暗い街路を道も分からずにほぼ全速で走るのは困難で、目的地のあるらしい前方の男の手にしがみつくように、獄寺は街を駆け抜けるしかなかった。
 何度か曲がり、そして坂道を駆け上がったところで、ようやく走るスピードが落ちてきた。
「おい、テメー何処行こうとしてんだよ!」
「いいとこ!」
「はぁ!?」
 喋る余裕が出てきたので尋ねれば、返ってくる返事は全く要領を得ない。それでも彼の自分の手を掴む力が弱まることはなかったので、結局獄寺は大人しく後ろを付いていく。
 そうして道のないような道を歩き、ようやく彼は足を止めた。
「はー、着いたぜ、獄寺」
 殆ど顔が判別できない程暗くなっているが、獄寺にはそれが気配で笑みを浮かべていると分かった。それも、酷く嬉しそうに。
 やはり訳が分からないのは同じなので、獄寺は如何とも答えられず、彼の後ろに立ってただ黙って首を傾げた。こんな藪の中に来て何がそんなに嬉しいのか。
「獄寺、ほら!」
 一層強く腕を引かれ、獄寺は踏鞴を踏む勢いで彼の隣に足を進めた。
 そして、不平を言おうとし、しかしその言葉の全てを失った。
「………!」
 荘厳だった。獄寺の視界のほぼ全てが、光に満ちていた。獄寺は息を呑んだ。
 獄寺はどうやら並盛町が一望できるどこだかの丘の上に立っているようで、足下には色とりどりのネオンが光の洪水となって横たわっていた。そして、上には、それこそ光の川のように天の川が広がっていた。それが溜まらなく美しく、獄寺は思わず溜息を漏らした。
「な? スゲーいいとこだろ?」
「……ああ」
 獄寺は良く考えもしないうちに生返事で首肯していた。それほど、この光景は素晴らしかった。
 獄寺はしばらく瞬きも忘れてその光の世界に魅入っていた。
「良く、……ここを見つけたな」
 陶然と呟く。殆ど囁くような声だったが、彼はきちんと聞こえたらしく、また笑ったのが息遣いで分かった。
「ちっちゃい時に偶然な。……ここまで喜んで貰えるとは思わなかったけど」
 くすり、と笑って、引っ張る為に掴んでいた手を、今度は繋ぐ目的で指を絡めるように掴みなおした。
 その時に至って、獄寺は自分がこの男と手をずっと握っていたのだと気付いた。気付いたが、何も言わずにそのままにしておいた。今は誰も見ていない、そう自分に言い訳をして。今が夜でよかったと思った。獄寺は色んな意味を込めて彼の手を握り返した。
「……獄寺」
 これは少し意外だったようで、彼は戸惑ったような声音を発した。しかし、嬉しさの方の比重が高いらしく、ぎゅ、とその手の形を確かめるように握ってきた。
「そういえば、今日は七夕だったな」
 思い出したように獄寺が呟けば、彼は実に面白そうに笑い始めた。何だ、と横を見やれば苦しそうに不自然な姿勢で笑いを堪えているらしい。獄寺は些か不機嫌になった。
「だって、獄寺……だから、お前をここに連れてきたんだろ?」
 それもそうか、と夜空を見上げて他人事のように獄寺は納得し、そしてそれなら早くそう言えばいいんだ、と口を尖らせた。
「本当は、先に家に帰って準備済ませてから来たかったんだけど……思ったより部活が長引いちまって」
 せめて弁当が欲しかった、と運動を終えた健康男児な彼は残念そうに呟いた。なるほど、確かにそろそろ夕飯時だ。
「なら、帰るか?」
 ただの提案のつもりで口に出したのだが、思いの外落胆したような響きが籠もってしまっていた。
 確かに、この光景を前にこんなに早く帰ってしまったのでは少し勿体ない気がしていた。本当に帰ると言われたらどうしよう、と隣を伺うと、いや、と返事が返ってきた。
「獄寺の手を放すのが勿体ないから、もう少しここにいたい。ダメか?」
 言いながら、ぎゅ、と握ってくる。
 時折こちらがびっくりする程の甘いセリフを臆面無く言う男だと知ってはいるが、それでもこうして何の準備もなく雰囲気も流れていないところに突然そういったセリフを投げ込まれると、どうも反応に困って仕方がない。
 獄寺は更に自分の顔が赤く染まっていくのを感じながら、小さい声で馬鹿野郎と呟いた。
 それからしばらく二人で黙って立ったまま、寄り添って目の前の光景を眺めていたが、突然獄寺が小さく震えた。
「寒いか?」
「ちょっと、な…」
 獄寺の服装は決して夜を想定したものではなかった。むしろファッションとして着ていた薄手のカーディガンはあまり防寒用とは言えなかった。
 実は随分前から寒気は感じていて、それを獄寺は握りしめてくる体温の高い彼の掌で紛らわせていた。しかし、日が落ちてしばらくすると急激に気温が落ちて、それだけでは暖を取れなくなってきていたのだ。
 彼は獄寺よりも軽装だったが、元来スポーツマンであるが故なのかあまり寒そうには見られなかった。
 彼は何を思ったか急にずっと握りしめていた手を振り解いた。それは唯一の温もりであり、それを繋いでいる間はここにいると言っていたようなものなので、獄寺は殊更名残惜しい気持ちを抱いた。
 きっと自分が寒がったから帰るのだろうと、そう獄寺は思ったのだが。
「これで、あったかい…?」
 突然背後から抱きしめられて、心臓が止まるかと思った。
「な、何、……すんだよ」
「……あったかい?」
 まるで子供のように同じことばかりを聞いてくる。
 しかし、子供のそれとは違うのは、そのセリフを耳元で囁いてくるところだ。
 獄寺が答えに窮して黙っていると、彼は再び口を開いた。
「なあ、獄寺……あったかい? ちゃんと、届いてるか?」
 身体はもちろん、その心にまで。
 言わなくても答えは分かっているだろうに、彼は答えを促すように、ぎゅ、と抱きしめてくる。
 仕方なく、獄寺は口を開いた。
「……暑苦しい」
 非難めいた言葉だったが、彼を満足させるのには十分だったらしく、そっか、と嬉しそうな声が鼓膜に響いてきた。
 そうして力強い彼の腕に抱き込まれて、獄寺は唐突に七夕の伝説について思い出していた。
 愛し合う二人が川の両岸に切り離され、年に一度晴れている日にしか巡り会うことを許されない。そして運命の日である7月7日を互いに待ちこがれながら、胸の内に迫り来る狂気のような愛を必至に押し殺して生きていく。
 獄寺は身体を半回転させて、彼と向き合った。
 きっと、出会えたその日に押し殺した愛が爆発するように胸からあふれ出て、そうして短い間である逢瀬の時を一杯の熱い情愛で満たすのだ。
 柄にもない程ロマンティックな事を考えてしまって、獄寺は自嘲した。きっと、今日出会った二人のその情愛とやらに当てられてしまったのだろう。
「獄寺…?」
 そうだ、当てられてしまったのだ。自分も、こいつも。
「山本……」
 思えば、この名を舌の上に載せるのは久しぶりな気がした。一旦載せてしまえば、後はそれが何か甘い菓子のように思えて、獄寺は何度もその味わいを確かめた。
「何だよ、いきなり」
 きっと、この男は今思い切り眉根を寄せているに違いない。そう思ったら俄然愉快な心地になった。
 そうだ。たまには困ればいい。
 獄寺は手探りで彼の制服の胸元を掴むと、一気にこちらへと引っ張った。
「う、わ…ッ」
 バランスを失って倒れかかる身体と共に獄寺も仰向けに地面に倒れ込む。
 今から思えば地面に大きな石でもあったら危ないところだったのだが、その時の獄寺はどこか考えが欠落していた。
 目の前の男が思考の全てだった。
「獄寺…」
 当惑したような言葉に、笑みを深める。
 全く持って柄じゃない。しかし、今はそれでも良かった。そう、今は熱烈な織姫と彦星に当てられているのだから。
「……山本」
 低く囁いて、どこだか分からないが恐らく顔であるところに口付ける。感触はどうやら頬のようだった。
 山本は一瞬息を詰め、そして元来の調子の良いところが戻ってきたのか、くすりと笑った。
「暑苦しいんじゃなかったのか、獄寺…?」
 言質を取られたな、と思考の隅では思った。しかし、その暑苦しさを感じない程に熱を帯びた身体ではそんなもの関係なかった。
「お前の熱なら…それでとけちまってもいい…とけて、どろどろになって、それで…」
 続きは言わせて貰えなかった。やはり体温の高い唇に塞がれたからだ。
 霞がかかったような思考の中で、ぼんやりと、唇の位置がよく分かったな、と思う。
 ゆっくりと唇が離れて、獄寺は視線を彷徨わせた。
 山本の頭で見えなかった視界が開けて、月と言わず、星と言わず、何もかもが輝いて見えた。その星を背負ったようにこちらを見下ろす山本自身も。
 ああ、綺麗だ。
 そうして、獄寺は熱に溺れていった。
 後は天の川だけが愛し合う二人を見守っていた。


後日談
「なあ、なんであんなに急いでたんだよ。別に天の川なんかいつだって見られるじゃねーか」
「あー、ほら、七夕の話に出てくる織姫と彦星はそれぞれ星座になってるだろ? 確か、メガとかアリゲイツとか…」
 獄寺は深々と溜息をこぼした。
「ベガとアルタイルだろ」
「そーそー、それそれ!」
 やはりコイツはただの馬鹿だ。
「それがさ、7時くらいから見えるようになるから」
 そうだったのか。天体に興味の薄い獄寺は生返事を返した。
「どうせなら、織姫と彦星が出てくる前から見せつけてやろうと思って」
「は?」
 意地悪い声を聞いて、獄寺は思わず振り返った。
「オレ達は毎日会えるけどこんなに愛し合って……」
「あーーーッ、黙れ野球馬鹿ッ!」
 もう絶対に一緒にあそこへは行かない、と獄寺は固く誓ったのだった。

後書き

随分と遅いですね、またしてもorz
忙しかったんです……ちゃんと更新できずにいてごめんなさい;;;;
それでも私は生きておりますので(笑
それにしても……この小説を書く為に、随分と星座盤を探し回りましたね…(苦笑

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