規則正しい寝息が、二段ベッドの上段の方から聞こえて来る。
随分と長い間啜り泣きが聞こえていたのだが、どうやら泣きつかれて眠ってしまったようだ。様々なことが心配だろうが、今は失った体力回復のために少しでも休んで欲しい。
下段でその様子を寝たふりをしながらずっと心配していた獄寺は、ついに眠気が覚めてしまっていた。
このままベッドで横になっていても仕方が無いので、綱吉には申し訳ないが少し夜風に当たるため、とはいってもこのアジトは地下にあるのでそうはいかないが、とりあえずその辺りを歩いてみることにする。
そして、もう一つの理由は……
獄寺は極力音を立てないようにベッドから抜け出すと、そのまま部屋を静かに後にした。
Un giorno senza i contenuti
(One day without the contents)
獄寺は、あてもなく通路を行ったり来たりしているうちに、昼頃にリボーンたちと合流した作戦室に近づいていた。
特にそこに用があるわけではない。むしろ、こうして歩いていることにも理由はさほどないのであるが。
「………?」
深夜なのにもかかわらず、作戦室には明かりが点っており、誰かがいるのか、話し声が聞こえている。
綱吉は居住区の寝室で眠っているはずだ。ならば、居るのはリボーンか、ラル・ミルチとかいう女か、それとも……
「ははっ、そうやってっと、やっぱり懐かしいのなぁ」
未来の、山本か。
「………」
獄寺は、何となく山本の話が気になって、作戦室へと忍び寄った。
「そんなことより、お前、10年後の人間関係はどうなってんだ?」
どうやら、リボーンもそこにいるようだ。
獄寺は更に近づいて、聞き耳を立てた。とても、話に参加する気にはなれない。
「おお、あんま変わってねーぜ? ツナが、ボスになったこと以外は、な」
当たり前だ。そう簡単にあの良いようで悪い人間関係が軟化するものか。
それに、綱吉以外にボスなど居なくて結構だ。
「ふむ…」
「何か言いたそうだな、小僧。何だよ?」
「……お前、獄寺と何かあるだろ」
なぜ、そこに自分の名前が出たのかわからず、思わず獄寺は声をあげそうになるのを必至で堪える。
何かあるわけがない。大体、顔を付き合わせるだけで嫌なのに。
「……どうして、そう思うんだ」
「お前の獄寺を見る目がオレの知ってんのとはちげーからな」
「………」
違うって何だ。
リボーンの言っている意味がわからなくて、獄寺は叫びたいのをまた堪える。
山本の、自分を見る目。初めて森の中で見たときには、たまにしか見なかった鋭い眼光が、常に瞳に宿るようになっていることに驚いたが、別段違うとかそういった劇的な変化は感じられなかった。
だが、森で見つめられた一瞬、獄寺は緊張と共に、何故か心臓の鼓動が早くなったことに気付いていた。
そのときに感じた感情を、獄寺は思い出そうとしたが、その思考は突然響いてきた山本の笑い声によってかき消された。
「あっはは、そーかそーか、やっぱりお前には隠し事は出来ねえのな! ……そうだぜ、オレと獄寺は五年前―――ああ、お前らにとっては五年後か―――から付き合ってるぜ。よく分かったな、小僧!」
余りにも朗らかに笑うので、獄寺はもうすこしでその一言の重大さに気付かないところだった。
何を言った、あの馬鹿は。
自分と。……自分と付き合う、だと。
またしても、獄寺は叫びだすのを堪えなければならなかった。本当に、よく堪えたと自分でも褒めてやりたい。
ありえない。驚天動地だ。世界がひっくり返ってもそんなことは絶対にないと断言できる。嘘だと言ってくれ、頼むから。
「やっぱりな」
リボーンまで何を言い出すのか。獄寺は、もう音を立てないようにするのが辛くなってきた。叶うなら、この辺り一体を焼け野原にしてしまいたい気分だ。地下だが。
「何で分かったんだ? オレ、これでも獄寺を混乱させないために抑えてたんだぜ?」
「言っただろ。お前の目つきが違うって。……ツナを見る目は父親みてーだったし、獄寺を見る目は恋人みてーだった」
こいびと。
リボーンの言い放ったそのたった四文字が、ついに獄寺の中の何かを焼き切った。
「何が恋人だッ!!」
そして、思わず叫んでしまってから、獄寺は口を抑えたが後の祭りである。
「誰だ! ……!」
廊下に飛び出てきた山本と、正面から目線を交わしてしまう。
「ご、くでら……」
特定できない複雑な感情が入り混じって、獄寺はすぐに踵を返して駆け出そうとした。
今、山本の顔は見たくない。
「待て!!」
しかし、獄寺の足は、何故かその叫びに動きを止めてしまった。
動けと、足に力を加えても、廊下に生えてしまったのかと思うほど、足はびくともしない。
「……頼むから、待ってくれ」
後ろから、ゆっくり近づきながら、間違いなく山本のものだが、聞きなれない低い声が獄寺の耳に届いてくる。
「獄寺……」
声が耳元で聞こえても、獄寺はその場を動けなかった。
そうするには余りにも、山本の声が何か深いものを帯びていた。獄寺を捕らえて、放さない何かを。
「何だ……よ…っ!」
獄寺が腹を決めて振り向けば、山本が急にきつく抱き締めてきた。
広い胸板に押し付けられて、一回りしか大きくなかった男が、もう一回りも二回りも大きくなっていることに改めて気付く。
獄寺は、未来の自分を知らないので、この男と実際どれだけの身長差になっているのかは知らないが。
山本は、何も言わずにただ痛いほどに獄寺を抱きしめるだけだった。
抱きしめる手が、小さく震えている。
「……馬鹿だな」
獄寺は、溜息と共に小さく呟く。
「オレは本当に、馬鹿だ。何でこんな奴と……」
「……ああ、それは今でも良く言われる」
やっぱりな、と獄寺は抱きしめている強い腕を叩いた。今度は、すぐに腕を開放してくれた。
「お前、色んな意味で下手なんだよ」
「それも、良く言われる」
はあ、と獄寺はさらに深い溜息をつく。
未来の自分は何を血迷ったのだろう。何をどう間違えれば、こんな男と一緒に居ることを選べるのか分からない。
「まず言うけどな。テメェが…す、好きなのは「獄寺」であって、オレじゃねーんだからな」
まだ、その単語は言い辛い。言い慣れる気はさらさら無いが。
でも、確かに、そうやって事実を突きつけられて考えれば分かることがある。
限りある未来の中に、確かにその選択肢があるということだ。
少なくとも、今の自分は山本のことなど恋愛対象には見ていないが、もしかしたら、いつか好きになることもあるのかもしれない。
可能性は、低いが。
「それからな、万が一、まかり間違って好きになることが……ないと思うが、あるとしたら、それもテメェじゃなくて「山本」なんだからな」
山本の日本人らしいダークブラウンの瞳を見上げながら、獄寺はきっぱりと言う。
しばらく、山本はそんな獄寺をじっと見つめ返していたが、静かに瞑目した。
「ああ、……そうだな。その通りだ」
それで終わりにすればよかったのに、獄寺はそのどこか悲しげな山本の様子を見るうちに、言わなくてもいいことまで口走ってしまった。
「それでも、いいなら……好きにしろよ」
「…え?」
山本が目を一杯に見開いた。
「ホントか?」
獄寺も、自分の言ってしまったことに気付いて、内心焦りでパニック状態だが、まさか言ってしまった手前山本の前でそれを取り消すのはプライドが許さずただ、そうだ、と答えた。
にや、と山本が山本らしくない笑みを口に浮かべる。
ゆっくりと、山本の顔が近づいてきた。覚悟を決めて、獄寺は目を瞑る。ふふ、と山本が音無く笑うので、吐息が肌に当たってくすぐったい。しかし、不平はいえないので黙って我慢する。
しかし、やがて訪れた柔らかい感触は思いもしなかった頬へとやってきた。
思わず目を開くと、悪戯っ子のような山本の瞳とかち合う。
「……馬鹿だな、オレがそんなことするかよ」
「………っ」
山本は、こんな男だったか。
今まで凍っていた怒りが一気に湧き上がってきて、獄寺は山本の胸元を掴んだ。
「テメッ、ふざけんなよっ!」
「何だよ、して欲しかったのか?」
キ・ス、と山本が獄寺の唇をさっと撫でる。
これは、からかわれているのだ。きっと、最初からリボーンと山本にからかわれているのだ。そうでもなければ、何故こんなにこの男が楽しそうなのか説明がつかない。
「オレをからかって楽しんでんじゃねえよ!」
「悪かったって、な?」
あはは、と笑いながら謝る男のどこを許せというのだ。
むすっ、と獄寺は胸倉を掴んでいた手を放して、そっぽを向く。
「……でも、オレと獄寺が付き合ってるってのは、本当だぜ」
声を上げる間もなく、獄寺は再び山本の腕の中に囲われていた。
今度は、優しい、心地良いとさえ思えるほどの抱擁。獄寺は、その腕から山本が本当に「獄寺」を愛しく想っていたのだと悟った。
「……やま、もと…」
その腕に包まれて、何かが分かりかけた。しかし、それは直ぐに霧散してしまい、獄寺はその姿を捉えることが出来なかった。
「オレが、ずっと片思いしてて。ホント、最初は今みたく無視されっぱなしだったけどな、マフィアとして本格的に活動するようになってからは一緒に行動することが多くて。……ツナも、わかってたみてえだな。度々オレ達はペアで作戦に挑んだ」
何度目かの作戦遂行中、獄寺が大怪我を負った時があった。
山本が狙われている獄寺を庇おうとしたのを、獄寺が逆に退けたせいで、逃げるのが遅れたのだ。
「すっげー怒られた。任務より獄寺を選んだこと……オレが私情で動いちまったってこと、バレたのな。そんで、気付いたんだよ……ああ、獄寺はオレのことちゃんと見てくれてるんだなって」
獄寺の視界の中に自分は映っていないと思い込んでいた。だからそれでもいいから傍にいることだけを考えていた。なのに、何時の間にか獄寺は中学の頃とは比べ物にならないくらいに成長していた。自分は、ずっと同じところで足踏みをしていただけなのに。
「だから……いろいろ、考えるのは止めて、素直に好きだって言ってみたんだ」
ずっと、自分の中に封印してきたことば。
一度口にしてみたら、意外とすんなりと口はそれを紡ぎだした。それこそ馬鹿らしいほどに。
「………何て」
「ん?」
「…それに、何て答えたんだ、「オレ」は」
山本は、獄寺の肩口に顔を埋めると、小さく笑った。
「……知ってる」
「は?」
「だから、一言だけ…“知ってる”って言われたんだよ。……なんか、オレ色々と脱力してな」
それが三年前だ、と山本が呟く。
「そっから、二年間…振り向いてもらうのに必死だったなぁ」
またくすくすと笑い始めるので、獄寺はくすぐったくて、軽く山本の腹に拳を入れた。
「テメェな、聞いてりゃ惚気にしか聞こえねぇじゃねえか! …野球馬鹿のクセに」
お前の恋は中坊の初恋か、ともう一度殴れば、痛いと笑いながら山本は体を放した。
「ははっ、久しぶりに聞いたな、野球馬鹿(そのセリフ)」
山本は一瞬獄寺の髪に触れ、そしてすぐに背を向けて歩き出した。
「明日も早いんだ……ゆっくり寝ろよ」
獄寺は、最後に見た山本の瞳の奥に揺らめく何かに、また動くことができなかった。
愛しさなのか、悲しみなのか、それとも諦めなのか。
「……な、……に」
獄寺が小さく呟くと、山本が顔だけ振り向いた。口に、意地悪な笑みが浮かんでいる。
「何だよ……眠らせて欲しいんか?」
山本の視線が獄寺の体を舐めるように動かされた。
ぞわり、と獄寺の背中に悪寒が走る。
「ちっ、違ぇよ!」
反射的に叫び返し、そして山本に上手くごまかされたことを知った。
そして、あんな深い表情をさせるこの時代の自分に嫉妬する。
……嫉妬?
「あははっ、嘘だって。じゃあな、お休み」
何故だ。また理解不能の感情が荒れ狂って、獄寺は拳を握り締めた。
怒鳴ってやりたい。でも、同時にあの背中に抱きつきたい。
「……山本ッ!」
気付いたら、山本を呼び止めていた。
「ん?」
山本が再び顔だけで振り向く。
そして、伝えたい言葉が見つからずに獄寺はしばらく口を閉じたままその顔を見つめた。
そのまだあどけなさの残る十代の顔を山本は見つめ返す。
「……オレにとっちゃ、お前が初恋なんだよ。…「お前」が」
山本が微かに目線を落として呟く。
「だから、ちょっと……いや、いいや。忘れてくれ」
小さく、恥ずかしそうに山本が頬を引っかきながら言うと、ひらひらと手を振る。
「もう、いいから早く寝ろって……いつ敵が来るかも分かんねえんだ」
「………ったな」
本当に去っていきそうな気配に、獄寺は必死で言葉を紡いだ。
ん? と山本はそんな獄寺を待っていてくれる。
もうやけくそだと思いながら、獄寺は叫んだ。
「殴ったりして、悪かったな!!」
呆けた顔で、山本が獄寺を見つめる。
そうだ、自分はこの言葉を言いたくて部屋から抜け出してきたのだ。言って初めて獄寺はそのことを思い出した。
「……あははははっ、気にしてねぇよ!」
嬉しそうに笑いながら、山本は作戦室へと戻っていった。リボーンとまだ話があるのだろう。
獄寺は、廊下に立ち竦む。
笑い方があまり変わっていないこととか、近くで感じた匂いがコーヒーだったとか、そんなことよりも。
「………馬鹿か」
アイツが本当に中学の時から好きだったのだとしたら。
どきどき、と心臓の鼓動が止まらない。
「アイツは……ずっと、オレのこと見てたってのか……?」
アイツのことなど、さほど気にしてはいなかった。
自分には、綱吉だけいればそれでよかったのに。アイツの存在など、あっても無くてもいいと思っていたのに。
痛いほどに脈動する心臓が、その事実を獄寺の脳裏に刻み付けていた。
「山本武」という存在が、自分の中で急速に大きくなっていることを。
そして、この世界に来て初めて山本に見つめられたときに感じた感情の名も。
「………馬鹿だ」
知ってしまった。気付いてしまった。
名を付けられて自由となった感情は、水を得た魚のように獄寺の感情の中を泳ぎまわる。
この世界に、「山本」が来なくて良かった。
もし、ここに居たら……どうにかなってしまうに違いない。
こいびと。
リボーンの口から聞かされた四文字が、ぐるぐると頭を巡る。
こいびと。……恋人。
「オレ、は……、…っ!」
獄寺は居住区までの道のりを走った。
何も考えたくはなかった。身を切る風に乗せて全て忘れたかった。
そんな獄寺の思いも虚しく、あくる日10年バズーカに当たって過去の山本がこの世界にやってくることを、まだ彼は知らない。